柳生宗厳(むねよし:石舟斎は入道後の号)は戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、後に新陰流の兵法家として活動する。百官名は但馬守(たじまのかみ)。
三好政権下では松永久秀が最も気を許した家臣で、軍事・外交共に信頼は絶大であった。
永禄6年(1563年)宗厳34歳の時、上泉信綱が大和国へ現れると、剣術に絶対の自信を持っていた宗厳は立ち合いを申し込む。
しかし本人どころか弟子である四天王の一人、疋田景兼に完敗(他説あり)した宗厳は己の未熟さを悟って即座に弟子入りし、信綱を柳生庄に招いてその剣を学んだ。
元亀3年(1572年)に主君の松永久秀が織田氏を裏切り滅亡すると、柳生宗厳はそのまま柳生庄で隠遁し剣のみに向き合う第二の人生を歩み出す。
その後豊臣秀吉に柳生家の隠し田が見つかり領地を没収され一家離散に追い込まれるが、剃髪・入道して石舟斎と名乗り、以降兵法家としての活動に注力していく。
文禄3年(1594年)石舟斎の噂を耳にした徳川家康は京都郊外の仮宿舎へ招き「無刀取りを見せよ」という要望を出す。
五男・柳生宗矩(むねのり)を伴って来訪した石舟斎はその要望に顔色ひとつ変えず応え、家康の信頼を得た石舟斎は、仕官を請われたものの辞退。
代わりに息子の宗矩を推薦し、柳生家は再興を果たした。
尚、テレビドラマなどでは「柳生新陰流」が有名だが、これは宗厳以降の新陰流の俗称で上泉信綱の新陰流に対して分派を起こしたわけではなく流派名も変更されていない。
ただし武道学では「新陰流」と「柳生新陰流」の伝える内容の差異や系統分けのため区別して使用することもある。
本作の石舟斎は刀の奥義を伝授してくれる口数が少ない人物。
しかし、いざ戦いとなるとその動きは言葉で語らない代わりに剣でとでもいいそうな動きを見せる。
下記表のミッション名の後に(○)があるものは対戦動画が該当ミッションページに掲載されている。
種類 | 出現場所 | 固有ドロップ | 弱点 | 耐性 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
人間 | 剣禅一如(○) 剣聖の高弟(○) 転(まろばし)(○) | 製法書:「天狗切」 製法書:「柳生の衣」 製法書:「草薙の剣」*1 | なし | なし |
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